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そうさくとひょうろん
どうもADUです。実は一年越しに書いてた小説がとりあえず完成しました。
あ、夢現抱擁じゃないですはい。
さっそく本題。思いついたことつらつらなので読みづらくてもご容赦。
美術評論家が優れた美術家というわけではない。
もちろん、それを両立する者はいるだろうし、優れた美術家ならば評論もできるように思う。
評論家というものを批判するわけではない。だが、評論家というのは魅力の発信者ではない。布教者ではない。
もちろん、分析に意味がないなどとは思わない。
自分は一体、魅力的に感じた作品の、どの部分に魅力を感じたのか。それを分析することで、その魅力を保ったままにまったく別の作品を生み出すこともできる。
逆にそれが不十分だと、中途半端に似ただけの、魅力のないものにもなりかねない。
たとえばクロスアンジュが好きな人がいるとしよう。そんな人に何を勧めるか。
福田監督作品が好きならSEEDを見ればいいし、
声優陣が好きならドッグデイズを見ればいいし、
歌って戦うロボットが好きならマクロスを見ればいいし、
歌って戦う水樹奈々が好きならシンフォギアを見ればいいし、
感度三千倍にされるヒロインが好きなら対魔忍シリーズでもやればいい。
どこに自分が魅力を感じたのか、という自己分析は、楽しむためのチョイスもそうであるし、当然のように作品を作るにおいてはより重要だ。
ただし例示しておいてアレだけど、クロスアンジュに似たものをと言われて勧められる作品ねぇぞ……。
『オークに犯されて人外の快楽に屈服し虜となる女騎士』という作品があるとする。
オークに犯されるシチュが好きなのか、人外の快楽に屈服するシチュが好きなのか、快楽の虜となるシチュが好きなのか、屈服する女騎士が好きなのか。これだけの短い文章であっても抜き出せる要素は多いし、人の嗜好というのは個々の属性だけで決まるものではない。
上記の場合であれば、オークに犯される女騎士が好き、オークでなくてもいいけど人外に犯される女騎士が好き、いや別になんでもいいけどとりあえず女騎士が好き、など。複数の属性が組み合わさってこそ魅力を感じる者もいる。
魅力を感じる対象はシチュや属性ではなく、そのイラストの線であったり、色使いであったり、文章の文体であったり、内面描写を主体とする書き方であったりもする。
同じ作品に魅力を感じたところで、同じ部分に魅力を感じているとは限らないのである。
これはもちろん、自分が好きというだけでなく、どこが他人に好かれたのか、という他者分析にも繋がる。
創作において、ただ自分の好きなものを突き詰める。というのは大切だと思う。しかし同時に、他人にも好きになってもらいたいと思う気持ちは当然のものだ。もっと言うと、商売においては他人に好かれてナンボである。
とはいえ、自分が魅力を感じないものを作っても、ここが自分の推しポイント、こだわりを持たずに作ったものは、薄っぺらい。
技術や理論だけでそれを魅力的に見せられる人は本当に凄いと思うが、逆に言えば、それだけの力がないならば、自分のこだわりを乗せて作るべきだと思っている。
特にエロの世界については、こだわりがあってこそのものだと思う。
自分は興味が薄いけど、他人に好かれる要素だから入れる。
これ自体は悪いとは言わない。だが、そこに好きな要素もあってしかるべきだと思うわけだ。
創作という土俵において、汎用的な分析に意味なんてない。
自分はここが好きだ。あれのあそこが好きなキミなら、これのここにも魅力を感じるのではないか。そんな個々への分析があってナンボではないか。そんな風に思う。
あ、夢現抱擁じゃないですはい。
さっそく本題。思いついたことつらつらなので読みづらくてもご容赦。
美術評論家が優れた美術家というわけではない。
もちろん、それを両立する者はいるだろうし、優れた美術家ならば評論もできるように思う。
評論家というものを批判するわけではない。だが、評論家というのは魅力の発信者ではない。布教者ではない。
もちろん、分析に意味がないなどとは思わない。
自分は一体、魅力的に感じた作品の、どの部分に魅力を感じたのか。それを分析することで、その魅力を保ったままにまったく別の作品を生み出すこともできる。
逆にそれが不十分だと、中途半端に似ただけの、魅力のないものにもなりかねない。
たとえばクロスアンジュが好きな人がいるとしよう。そんな人に何を勧めるか。
福田監督作品が好きならSEEDを見ればいいし、
声優陣が好きならドッグデイズを見ればいいし、
歌って戦うロボットが好きならマクロスを見ればいいし、
歌って戦う水樹奈々が好きならシンフォギアを見ればいいし、
感度三千倍にされるヒロインが好きなら対魔忍シリーズでもやればいい。
どこに自分が魅力を感じたのか、という自己分析は、楽しむためのチョイスもそうであるし、当然のように作品を作るにおいてはより重要だ。
ただし例示しておいてアレだけど、クロスアンジュに似たものをと言われて勧められる作品ねぇぞ……。
『オークに犯されて人外の快楽に屈服し虜となる女騎士』という作品があるとする。
オークに犯されるシチュが好きなのか、人外の快楽に屈服するシチュが好きなのか、快楽の虜となるシチュが好きなのか、屈服する女騎士が好きなのか。これだけの短い文章であっても抜き出せる要素は多いし、人の嗜好というのは個々の属性だけで決まるものではない。
上記の場合であれば、オークに犯される女騎士が好き、オークでなくてもいいけど人外に犯される女騎士が好き、いや別になんでもいいけどとりあえず女騎士が好き、など。複数の属性が組み合わさってこそ魅力を感じる者もいる。
魅力を感じる対象はシチュや属性ではなく、そのイラストの線であったり、色使いであったり、文章の文体であったり、内面描写を主体とする書き方であったりもする。
同じ作品に魅力を感じたところで、同じ部分に魅力を感じているとは限らないのである。
これはもちろん、自分が好きというだけでなく、どこが他人に好かれたのか、という他者分析にも繋がる。
創作において、ただ自分の好きなものを突き詰める。というのは大切だと思う。しかし同時に、他人にも好きになってもらいたいと思う気持ちは当然のものだ。もっと言うと、商売においては他人に好かれてナンボである。
とはいえ、自分が魅力を感じないものを作っても、ここが自分の推しポイント、こだわりを持たずに作ったものは、薄っぺらい。
技術や理論だけでそれを魅力的に見せられる人は本当に凄いと思うが、逆に言えば、それだけの力がないならば、自分のこだわりを乗せて作るべきだと思っている。
特にエロの世界については、こだわりがあってこそのものだと思う。
自分は興味が薄いけど、他人に好かれる要素だから入れる。
これ自体は悪いとは言わない。だが、そこに好きな要素もあってしかるべきだと思うわけだ。
創作という土俵において、汎用的な分析に意味なんてない。
自分はここが好きだ。あれのあそこが好きなキミなら、これのここにも魅力を感じるのではないか。そんな個々への分析があってナンボではないか。そんな風に思う。
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